リニアモーターカー

更新:2021/9/15

夢のスケッチ

何気なく道を歩いていると、向こうから来た年配の女性にいきなり新聞の集金を押し付けられた。集金用のよれよれの黒いバッグをぐいっと私に持たせたのである。その女性は怒ったように足早に去っていった。

仕方なく、領収証を切ってない家をまわることにした。

この仕事は経験がないので緊張するが、家に来た集金人を思い浮かべると、気楽にやればいいような気がしてきた。

伝票を確かめながら順番に訪問していくと、問題なくできた。

ある家で「こんにちはー、新聞の集金にまいりましたー!」と声をかけたら奥さんが出てきたので集金しておつりを渡した。すると「まあ、ちょっと上がって。子供たちもいることだし、お茶でも飲んでいったら」と言うので、上がらせてもらった。

家の中は階段のいたる場所に、これ見よがしに彼女の息子たちの賞状や作品が飾ってあるので、いちいちほめて通らなければならず、面倒だなあと思った。二階に上がると、薄い生地のハンカチのようなものが部屋いっぱいにふわふわ浮いている。

一階の北側の部屋に奥さんのアトリエがある。彼女はTシャツのプリントを手掛けていて、たいそう自慢げにいろいろ見せてくる。

作品をアトリエの前の田んぼの向こう側に立て掛けて、家の中から見るのが好きなようだ。一緒に眺めてみたが、ちょっと遠すぎてよくわからない。

何か言わなければと思い、「こういう田んぼがあるといいですね、遠くから作品を見れるし」と言うと、「そうね、持ち主の藤井さんは何も言わないからね。」と少し疲れた様子を見せる。

二人並んで田んぼの方を見ていると、目の前をさーっと風のように電車が走り抜けた。
リニアモーターカーだ。もう夕焼けも近い。

私が帰ろうとして玄関で靴を履いていると、家の奥からおばあさんが出てきて「あらまあ、もっとゆっくりなさったらいいのに」と言った。

振り払いたいものがいつまでもまとわりつく感じがして、私は田んぼの畦道を一生懸命走った。

後ろからまたリニアモーターカーが静かな風のようにスッと来て田んぼの中に停まった。そこが終点のようだ。
ずっと走っているのに家はまだまだ遠い。

公園で大きな三輪車に乗った女の子が私の様子をじっと見ている。うまく動かせないようだが、自慢気な顔で私を見る。

私は走り去りたい。

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考察

この夢を実際にみた時代は、昭和の終わり頃だった。

随分昔の風景である。新聞集金人が各家々をまわり、現金を持ち歩いている。
今では考えられないが、当時は普通だった。

風景も懐かしい。
家々がまだ建て込んでおらず、住宅街の中にも多くの田畑が残っていた。
玄関に呼鈴はあってもインターホンはなく、留守でなければ鍵は閉められていない家が多かった。

家には専業主婦がいることが特別ではなく、むしろ一般的だという認識が大多数だったと思う。

これは私自身がみた夢なので、登場人物すべてが私の投影だと受け止めている。
通りすがりに集金を押し付けてきた中年女性、集金先の主婦、奥から出てきたおばあさん、三輪車の少女。そして私、という人物。

中年女性はそもそも彼女も集金を誰かから押し付けられたのである。疲れたのに用事が多く残っており、イライラしていた、ちょうどそこに気楽そうに歩いて来た若い女性を見て、とっさに集金を押し付けた。
暇そうな若い女性は何でも言うことを聞く彼女の手下、ということなのだ。

私も若くない年になったが、若い頃より用事の量が増え続け、疲れるとイライラするし、手が空いている人には手伝ってほしい。でもいきなり怒ったように、しかもそれが当然のように押し付けるのはやめておきたい。

主婦は子育てをしながらTシャツ作品を作っていた。
姑と思われる女性もいて、この主婦は忙しい毎日を過ごしていたが、彼女個人のアイデンティティは求められないなか、作品作りに気持ちのはけ口を見出していたのではないか。

主婦は元々クリエイターの素質を持っている人物だったが、結婚という出口のない暗い世界に閉じ込められている。
子供に恵まれ、家族に囲まれて安定した生活を送っているというだけで、幸せであると無理やり宣言させられている。この主婦のフラストレーションは、自分から外の世界に出る事はできなので、身近なものに叩きつけられる。

階段に飾ってある子供たちの賞状や作品は、子供によって自分の存在を確認する手段である。
年齢があまり違わない新聞集金人を家に引き入れて、自分のことを一方的に喋り、作品を見せびらかす。
よその田んぼを使うのも、自分は小さな家の枠に収まるような人間ではないんだ、とばかりテリトリーを広げる。

二階の部屋いっぱいに浮かんでいた優しい薄い生地は、彼女の存在感そのもので、精霊とも魂とも言う。本人は苦しんでいるが、家族は彼女に包まれて幸せに暮らしているのだと思う。

私が子育てをしていたときも、このような境遇の女性が多かったのを覚えている。

奥から出てきたおばあさんは、人生の大部分を諦めている。しかしまだ生きているので、少しだけ力を振り絞って来客に自分の存在をアピールするのである。
「あらまあ、もっとゆっくりなさったらいいのに」というのは、「まだいたんですか、さっさと帰りやがれ」という意味である。このような京都式挨拶を怖いという人は、お花畑であり、人に対する思いやりの真意を理解していない。おばあさんは主婦に用事があるので、私が帰らないと困っていたのだ。

老婆には時間がない。私もあと少しで老婆、いやもうそうなのかもしれないが、常に焦りがある。
人生を諦めたのならゆったり過ごせばいいものを、そうはいかないのがつらい。

これは各年齢の女性たちの鬱屈したフラストレーションの表現である。
少女、若い主婦、中年女性、老婆。

私という人物は、そんな女性の暗いイメージを振り切って逃げようとするが、走ってもなかなか抜け出せないので余計悪循環に陥る示唆を感じる。

そこへ突然さっそうと登場したのは、リニアモーターカーである。さっそうと田畑を駆け抜けるさまはまるでヒーローのようで、現状から一気に救出してくれそうな雰囲気なのである。しかし登場人物で誰一人乗れる者はいない。
むしろ乗ろうともせず、興味も示さない。

目に入ってくるリニアモーターカーを虚ろに見ているだけなのである。

女性の置かれた境遇は自己暗示にもかけられていて、抜け出したいとさえ思えなくなってしまったのか。